「教えて茶道」Vol,213

九月になって、虫の声を聞き、秋の象徴の赤とんぼを見てもまだまだ暑
い日が続いております。記録だそうですが、環境温暖化でしょうか、地
球の未来が恐ろしいですね。
お茶室に入って異次元空間を味わいましょう。
先日、花展の添え釜があり、お手伝いをいたしました。
お菓子を菓子鉢に入れたり、お茶を点てたり、茶碗を洗ったり、お客様
へ運んだりいたしました。
それと、一席が終わると、席中を改めます。茶花に霧吹きで水をかけ、
水指の水や釜の湯の補充、風炉の火中を整えるなど、裏方の仕事もいろ
いろとあって忙しいでした。
これらの仕事はお稽古ではありませんので、又これらの仕事がお客を迎
えるための仕事でもあり、進んで手伝わせていただき、それを学ぶと言
う精神で機会があればいたしましょう。
それが本当の自分を磨く、自分の物になる精神美人になる心得です。
顔やスタイルは持って生まれたもので変えることはできません。今は整
形というとっておきの必殺技がありますが、わかい時は若さが魅力です。
いつまでも若くはありません。誰でも平等に年をとります。
美しく年齢を重ねる、いつまでも魅力ある人になる、精神美人になるに
は心掛けしだいだと思います。
精神修行を怠りなく、でも難行苦行ではなく楽しみを忘れてはいけません。
人生は大いに楽しみましょう。


ほどよい湯加減(湯相)で茶を点てるるためには、火加減(火相)もほ
どよくなることが必要で、そのために炭手前があります。
茶事や茶会では、湯と火の加減に心配るのが亭主の大切な働きとなるの
で、炭手前は重要です。
濃茶の前が初炭(しょずみ)、濃茶の後が後炭(ごずみ)で、まず初炭
の点前を習います。炉と風炉によって炭の寸法や使用する道具が異なり
ます。羽根や香合の扱いや炭斗(すみとり)への炭の組み方、炭の置き
方にも理にかなった約束があることも覚えます。
炭手前はいつも自分ができるわけではないので、先輩や仲間の手前を拝
見するのも大切です。

<窯 かま>用語

東山  とうざん  
     東山焼(とうざんやき)兵庫県姫路の磁器。姫路焼ともいう。
     1825年橋詰藤作が葛飾郡東山に開窯。磁法は有田系である。
     のち姫路侯酒井宗雅の御用窯となり29年頃まで焼かれた。1831
     年男山に移窯され、京都の陶工尾形周平が招かれて指導にあ
     たった。周平は2年間滞留し、周蔵(御典医橘邊遷喬の子。
     周平について陶法を修めた)とともに青磁・染付・金襴手な
     ど優れた作品を残した。その後さらに山の井に移され、藩の
     手を離れて民間有志によって焼かれた。1876年大蔵前に永世
     舎が設けられ、旧藩士を集めて授産のための製陶が始められ
     、男山窯の陶工もここに移り男山窯は消滅した。作品は藩御
     用窯時代の物が優れ、「播陽東山焼」・「姫路製」(周平作)
     「東山」などの銘記のある「古染付写し桜川水指」・「金彩
     菊桜絵皆具」「祥瑞写し砂金袋形水指」などが知られる。
     
常滑  とこなめ  
     常滑焼(とこなめやき)      
     愛知県常滑の陶器。起源については僧行基説・土師氏説・藤
     四郎説・不志木説などがあるが、はっきりしない。広島県か
     ら青森県の及ぶ各地の遺跡から平安・鎌倉時代の古常滑が出
     土し、九州を除く全国各地に盛大に送出されていたことがわ
     かる。自然釉や灰釉が肩に流れた炉器質の壷・甕が多く、
     口が外に開いた雄渾で力強い作行を示す。天台宗や修験道に
     関連したものがほとんどで、一般の生活用品ではなかったよ
     うである。現在三十九に及ぶ古窯址群が発見されている。室
     町時代に入ると半地上式の大窯(鉄砲窯)が築かれ、真焼(
     まやけ)と称する黒褐色の堅い炉器の壷や甕が盛んに焼成さ
     れ、生活用品に主力がおかれた。丹波焼・備前焼・南蛮焼な
     どに近似してよく見誤る場合がある。桃山時代の常滑の城主
     水野監物は利休や津田宗及・妙喜庵功叔らと交友があり、多
     くの常滑焼を紹介しており、宗及の茶会記にはよくそのこと
     が記されている。1781−9年渡辺弥兵衛は尾張徳川家より「常
     滑元功斎」の銘を賜り、真焼の水指・茶入・香合などの茶陶
     にこの銘を残している。1804-30年には上村白鴎・赤井陶然・
     伊奈長三郎らの名工が輩出し、常滑焼に陶芸時代を迎えた。
     真焼のほか、白鴎に赤・黒の楽焼、陶然に灰釉作品、長三に
     白泥焼・火色焼(藻掛け)などがある、1834年鯉江方寿は真
     焼窯(登窯)を築造、また1847年には真焼土管を創製し、
     常滑陶業の中興の祖と仰がれた。なお1878年には中国人金士
     恒が宜興式の急須の製法を伝え、文人趣味の風潮に乗って多
     数の朱泥急須が作られ、同時に朱泥焼が作り出されて常滑焼
     に新分野を開いた。

万古  ばんこ
     万古焼(ばんこやき)
     伊勢国三重県朝日村で1736-41年ごろ沼浪弄山により焼き始め
     られた陶器。弄山はのち江戸向島小梅に移り、製陶に従事した。
     これらの作品を古万古・弄山万古と呼び、江戸で焼造した物
     を江戸万古と称している。1818-30年頃一時とだえたが、1830
     -44年に同じ桑名の森有節が小向村の旧地に窯を再建し作陶し
     た。これを有節万古・再興万古・朝日万古などど呼ぶ。1854
     -60年に飯野郡射和村(松阪市射和町)の国学者竹川竹斎は
     弄山の古法を学び、射和村も万古焼を起した。これを射和万
     古と称した。その後万古焼の伝統は次第に伝播して、桑名や
     四日市近辺に開窯するものが続出した。元来京焼系の陶芸で、
     赤絵・染付・交趾などの写し物が中心となっている。