「教えて茶道」Vol,208

皆様ご機嫌いかがでしょうか?又どのように盆休みを過ごされましたで
しょうか?疲れてもっと盆休みが必要だと言われる方もいらっしゃるか
もしれませんね。
私は静かに過ごしましたと言うより、元気印の私は鬱の状態に入って、
やる気がぜんぜんありませんでしたので、行動も自然と少なく家にこもっ
ていました。時々理由もなくエアポケットに落ちこむ時があります。
こんな時はゆるりと一休みしながら、・・・
暑さもありますから・・・と言って家でだらだらしていましたら、以前
に友人からこんなのがあるよと、楽しい新聞の記事をいただいていまし
たが、何処かにまぎれ込んでいるのを見つけました。
そこだけの切抜きですので詳細はわかりませんが紹介いたします。
納得の微笑みと私もそう願う気持ちにさせました。

「友衛家の茶杓ダンス」松村栄子作

雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な茶杓をもち 道具ひとつあれば欲はなく 自慢せず
いつも静かに茶筅を振っている 
1日に粗茶一服と 干菓子と少しの饅頭を食べ 師の教えを
だって違うだろうと言わず よく見聞きしわかり そして忘れず
野原の松の林の蔭の 小さな萱ぶきの小間にいて
東に茶会があれば 行って下足を取り 
西にボテ箱運ぶ人あれば 行ってその荷を負い
南に点前に緊張する人あれば 行ってこわがらなくてもいいと言い
北にイジメや嫌がらせがあれば つまらないからやめろといい
日照りのときは灰のアクを抜き 寒さの冬は藪で竹伐り
みんなに変人と呼ばれ 踏まれても おもねらず 
ひとたび正客となれば趣向を盛り上げ 
次客となれば聞き上手となり
詰めとなれば気がよく働き 
亭主となれば命を賭して誠を尽くす
そういう茶人に
わたしは なりたい


<茶人伝>松平不昧(まつだいらふまい)
江戸後期の松江藩十八万五千石の大名茶人。1751年に生まれた不昧・松
平冶郷(はるさと)は、幼少の頃より茶の湯に親しみ、破綻寸前であっ
た藩財政の立て直しがうまくいくにつれて、多くの名物茶器を精力的に
収集し始めました。「圜悟の墨蹟(えんごのぼくせき)」「油屋肩衝き
(あぶらやかたつき)」をはじめ、五百点以上にのぼる茶道具の数々は
いわゆる「雲州名物」と呼ばれ、その姿を後世に伝える役割を果すこと
になりました。また、茶道具研究の成果として、実証的な姿勢に貫かれ
た「古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)」十八巻をまとめ、「
大名物」「名物」「中興名物」などの分類を行って、茶道美術史上に大
きな足跡を残しました。
菓子にもことのほか関心のを寄せ、松江の菓子として「山川」「若草」
などは、不昧好みの菓子としてよく知られるところとなっています。
1818年、六十八歳にて没。


<窯 かま>用語

阿漕  あこぎ
     阿漕焼(あこぎやき)三重県津の陶器。安東焼を復興させる
     目的で1848-54倉田久八が津の阿漕浦近くに開窯、花入・茶
     器・酒器などをつくり再興安東焼とも称したが、経営難で、
     明治末年に廃窯した。久八は別に真鍮線による象嵌焼を作っ
     たことによって知られる。
     

出石  いずし
     出石焼(いずしやき)兵庫県但馬国出石の陶器。1764年陶窯が
     築かれたのが起りで、一時藩主仙石侯の所有となったが、1801
     肥前風の丸窯を築き磁器を作り始めた。1875桜井勉が盈進社を
     設立、新窯を開き良品を出したが、まもなく解散した。
     
伊部  いんべ
     伊部焼(いんべやき)備前国伊部の器。一般には備前焼によっ
     て総称される。伊部でもかなり古くから水瓶・種壷などの雑器
     を焼いていたが、戦国時代に至って茶壷・茶碗など茶器を作り
     始め、後世これを古備前と呼び、遠州時代以後の黄褐色の灰釉
     をかけたいわゆる伊部だちのものを特に伊部焼と区別している。
     作行は薄く、塗り土をして茶紫色の照りを出し、かなり高温で
     焼成している。水指に鳥帽子箱・菱口・杵形・手桶・胴〆福耳
     などがある。最盛期は十八世紀後半の明和から寛政ころまでで
     肌に光沢をもたせ、細工の精巧なものを特に伊部手と呼ぶこと
     もある。鬚徳利などはその頃の作品であろう。

現川  うつつがわ
    現川焼(うつつがわやき)肥前国(長崎県)現川の陶器。矢上焼
    ともいう。1692年、田中宗悦が開窯。器胎は唐津風であるが鉄釉
    や呉須で絵付を施し、また刷毛目を用いて独特の趣を出し、瀟洒
    な作品をのこしたが約50年ほどで廃窯となった。茶碗・皿・向
    付・鉢などが主な作品。現在佐世保で横石臥牛がその作風を伝え
    ている。