「教えて茶道」Vol,204

毎日おあつうございます。言わないでおこうと思っても、暑いと言う言
葉がでてきますね。ご機嫌いかがですか?
久しぶりにお茶会へ行きました。
軸は「水上青青翠」
主茶碗 黒平 慶入  銘「せせらぎ」
涼しさを呼ぶ銘や軸の字です。
茶杓「朝神楽」
七月は京都では有名な祇園祭、あちこちでも夏祭りがございますので、
「神楽」の銘がよく使われます。


季節点前 名水点(めいすいだて)を説明いたします

<名水点>
名水を茶の湯に使用することは、昔からさかんに行われていました。
京都では、醒ヶ井、利休井戸、宇治川三の間の水などは、昔から名水と
して有名です。
名水点は、そのような水を汲んできて、茶の湯に用いるのですが客に名
水であることを示す為に、水指にシメ飾りをしておきます。
またすでにその水が釜に入れられている場合は、釜の蓋にこよりで封を
したりしておきます。
水指は、新しい木地(きじ)の釣瓶(つるべ)を使用します。まず水で
十分に湿らせて置き、シメを張ります。
シメの張り方は、前後に二つ、両横に一つずつ幣をつけて、勝手付の向
こうの角で縄を結びます。
なお、名水点は、濃茶でするのがふさわしのです。
客の心得としては、茶を飲む前に水や白湯を所望して亭主の心入れを汲
みます。
シメ飾りをした釣瓶の前に茶入れを荘り、迎付けをします。茶碗、建水
を運び出し、柄杓を蓋置の上に引いて総礼します。
この時正客は、「お見受けしたしますと、名水をご心配いただいたよう
でございますが、お水を頂戴いたしたいと思います。」と言った挨拶を
します。
亭主はこれに受礼をして、いつものように茶入れ、茶杓を拭き、茶筅を
出し、茶碗を少し前に引き、茶巾を水指の蓋の釜付の方にのせてから、
水指の蓋を取ります。まず釜付のほうの向こうを、右手で少し前に押し
出し、両手で少し出た前方を取り、前に引き出すようにして開け、両手
で右かた客付のほうの蓋の上へ重ねて置きます。
柄杓を取り、水を汲んで茶碗に入れ、柄杓を蓋置の上に引き、水を客に
すすめます。
正客は次礼して名水をいただき、次客に送り、連客一同喫み回します。
正客はころを見計らって名水の由来を聞き、亭主は居前のままで答えま
す。茶碗が戻ると、これを取りこみ、総礼をします。
柄杓を取ってかまえ、釜の蓋を取り、湯を汲んで茶碗をすすぎ、湯を汲
み茶筅通しをします。以下普通の濃茶と変わりありません。
点前が終われば、水指は水屋に引いたほうがよろしい。

木地釣瓶の扱いは、名水点のように釣瓶にシメ飾りをしません。水指の
蓋の扱いは、名水点と同じです。
なお、釣瓶の蓋を閉める時は、開ける時と逆になり、水指を水屋に引か
ずに、柄杓を荘る場合は、湯がえしをせずに、柄杓の合をふせて手の向
こうにかけ、蓋置とともに入の字に荘ります。

<茶人伝>千利休(せんのりきゅう)
武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、珠光(じゅこう)以来の侘茶
を究極まで深めた安土桃山時代の茶匠。1522年堺に生まれ、弱冠十六歳
で茶会を開くほどの練達ぶりを見せた利休は、やがて信長、秀吉の茶道
(さどう)となって、「天下一」と称される存在になりました。彼は紹
鴎の四畳半茶室を「待庵(たいあん)」の二畳、あるいは一畳半にまで
狭め、心理的に外界を隔離する躙口(にじりくち)を取り入れて、茶室
をきわめて精神性の高い空調へと昇華していったのです。
釣瓶(つるべ)を水指に用いるなど、日常雑器の中にも美を見出し、竹
の花入れや蓋置を自ら作り、あるいは楽長次郎(らくちょうじろう)を
指導して、赤や黒のさまざまな楽茶碗をも生み出しました。
しかし、この不世出の天才も晩年は光吉に罪を問われ、1591年2月28日、
ときおり雷鳴がとどろく中で、その生涯を断ち切ったのでした。
<訂正>
前回の<茶人伝>織田信長
1934年に尾張に生まれ、天下統一にに向けて着々とその勢力を拡大した
信長は、1968年、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて念願の上洛を
年号が間違っておりましたので、お詫びして訂正いたします。
1534年に尾張に生まれ、天下統一にに向けて着々とその勢力を拡大した
信長は、1568年、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて念願の上洛を
申し訳ございませんでした。

<茶碗 ちゃわん>用語

灰被  はいかづぎ
    @大名物。天目茶碗、灰被。砂張覆輪。内部の見込みに飛雲の
    ような青色文様が見え、梨皮色の光沢が麗しい中に総体銀砂子
    文様があり、土際釉溜りは厚く灰色の墨流紋が現われている。
    高台は鉄気色で正しい蛇の目をなしている。元堺の油屋常祐所持。
    A天目茶碗、灰被。銀覆輪。黒・柿・銀灰色が混じり合い、こ
    の色彩の変化は灰被天目中最も景色に富むものである。高台内
    は蛤状。松平不昧が入手し、同家伝来。
    B天目茶碗、灰被。銀覆輪。轆轤目がやや深く、鉄気色土を見
    せている。高台内は少し窪み喰違いがあり、黒釉と一部銀灰色
    との片身替をなし、見込みの黒釉は禾目を見せ、外部土際の釉
    止まりは高い。胴から腰にかけて小さい石はぜが4、5ヶ所ある。
    藤重造の黒塗曲物入り、相阿弥筆と称する掛物が添うている。
    江戸札差十人衆河村伝衞伝来、近代は岩崎弥之助所持。
    C天目茶碗、灰被。外部口縁が一段締まり、鉄気色土を見せ、
    高台回りの切箆が手強く、底縁外に面取り、底内はやや窪んで
    いる。総体黒釉。口縁の内外と裾土際および見込に灰色釉が現
    われている。「はいかつぎ天目」と小堀遠州が箱書付をしてい
    る。遠州蔵所蔵。大阪藤田家蔵。
     
端反 はたぞり
    口縁地の外方に反った形を言う。宗易の1581年12月9日の会に「
    ハタノソリタル茶碗」と見える。
 
半使 はんす
    判司。判事とも書かれるが、判事が正しいようである。桃山時代
    から江戸時代にかけて来朝した朝鮮の役官、あるいは通辞をいう。
    その人々が使っていた茶碗のことを半使呉須と呼んだらしい。黄
    ばんだ釉の下に紅い御本の斑が浮くものが多い。作風・形姿によ
    って呉器の他に半使井戸・半使三島・半使堅手・遊撃半使などの
    別がある。