「教えて茶道」Vol,194

桜がもう、満開、近所にある一本の木でも素晴らしい咲き方をしているの
にどこかへ出かけたくなるのです。今年は京都円山公園のしだれ桜を新し
い友人と見て参りました。時期がいいと大勢の観光客、台湾、韓国からも
きているとか、福井からきていた高校生男子四人組と他生の縁なんて言っ
て一緒に記念写真を撮りました。こんなことも楽しいことですね。

裏千家では、四月は透木釜(すきぎがま)三月は釣り釜を使います。
表千家では、三月が透木釜、四月が釣り釜とお聞きしました。
だんだんと暖かくなりますので、少し火から釜をとうざける配慮です。
すなわち四月中旬以降、気候が余程温暖になって、炉中の炭火の見えるの
が、少々暑苦しくなった頃の小期間いたします。

透木釜(すきぎがま)
透木にあててかける釜の意味から命名されたと考えられる。

透木(すきぎ)は、敷木から転化した言葉で拍子木形の木片をいう。
平蜘蛛とか達磨とか百侘釜のように刃付のものを炉壇または風炉の肩へ覆
い冠せるようにかけるので総体平たい刃のついた釜を使用するので、火の
おこりが悪くなり、それを防ぐために透木を用いる。
透木は、炉用、風炉用があり、いずれも大小があるが、普通炉用は長さ9
センチ幅20ミリ厚さ12ミリで、小さな拍子木のようなものをいう。
用材は利休好みが厚朴(ほお)、宗旦好みが桐、竺叟好みは桜、圓能斎好
みは梅で好んでいる。
多くが桐材で炉・風炉用がある。

透木の扱いは
透木を炉壇叉は風炉の肩の左右の縁に置き、これに釜の刃をのせます。
なお五徳は必要がないので、とりのぞいておきます。
炭手前は、本勝手の炭手前と変わりありません。
釜にカンをかけて、釜敷を出し、釜をあげた後、右手で右の炉壇の透木を
取り、打ちかえして左掌にのせ、ついで左の透木を取って、そのまま左掌
の右の方の透木に重ね、それを右手で重ねたまま持って、左手にもたせて
カンの下座に置きます。
後は同様です。
釜を戻す時に、左手で透木を取り、炉正面に向きなおり、右手で二ついっ
しょに打ちかえして、右手で上のほうを炉壇の右に置き、下の透木を打ち
かえして左に置きます。
ふたたび左ななめに釜の方に回り、左手でカンを取り、釜にかけ、初めて
上げた位置まで引き寄せ、炉正面に向き直り、釜を炉にかけます。
透木の扱いは風炉の季節も行います。


<薄茶器 >塗り物茶器の歴史
和物の塗り物茶器は、後醍醐天皇が作ったという金輪寺(きんりんじ)茶
器に始まります。蔦の木でできた大きな円筒形で、置蓋になっています。
塗り物茶器が作られた理由には唐物茶入が非常に高価で一部の特権階級の
ものだったことに加え香りが抜けないこと、湿気ないことなどの実用面に
優れていたからといわれます。そのような背景の中で、珠光時代の塗師
(ぬし)羽田五郎が、初めて棗(なつめ)形の原型の茶器を作ったとされ
ます。しかし、棗が茶道具として確たる位置を占めるのは紹鴎、利休の時
代からで、この時代はほとんど濃茶入として使われていました。

<茶碗 ちゃわん>用語

烏盞  うさん
     天目茶碗の一種。烏のような真黒な釉のかかった天目を言う。
     中国南宋代の建窯の天目が最も有名。

カイラギ
     梅花皮・鰄とも書き、カエラギ・カエラゲともいう。釉が縮
     れて粒状になった部分をいう。カイラギは本来刀剣の柄など
     を飾る鰈鮫の皮のことで、その白いざらめき肌が釉縮れに似
     ていることから、転用されたものである。井戸茶碗などのよ
     うに、高台の削出しが荒くなされたあと釉をかけると、窯中
     でその縮れた土皺の間に釉が結粒し、カイラギを生じる。本
     来は欠陥と考えるべきだが、茶湯では景色として喜ばれる。

柿蔕   かきのへた
     朝鮮茶碗の一種。李朝の比較的早い時期に作られた。全体の
     形や色合いが柿の蔕に似ているとも、また高台の造りがそれ
     に近いからともいわれる。砂混じりの黒褐色の胎土で、青み
     ある釉がごく薄くかかるが、時に無釉のように見える。口縁
     は抱え気味で樋口をなすが、腰で段をつけて切立ちがゆるく
     なるため、見込みは大きくむしろ開きかげんの形となる。
     大津・滝川・龍田などの名碗がある。

重ね茶碗 かさねちゃわん
     @「南方録」(台子)の利休切紙の「二種・二碗サヽ耳飾」
     重ね茶碗荘りの図示がある。
     A小習十六ヶ条の一つ。多人数の客がある場合に、二個の茶
     碗を重ね持ち出してする濃茶の点前。薄茶の場合は替茶碗が
     行われる。