「教えて茶道」Vol,145

先日、誘う方がありましたので、京都高台寺にて「夜咄(よばなし)茶会」へ
行って参りました。
その辺りは、雨降りにもにかかわらず観光客でごった返していました。
観光客も入れる茶会でしたから、ろうそく火の中での薄茶をいただくという
雰囲気だけと、近くの店での点心付きという茶会でした。
お茶に心得のない人には、ちょっとだけ茶会を味わえるのはいいでしょう。
お茶人さんには全然「夜咄(よばなし)茶会」とは名ばかりで物足りないで
しょうが、私は始めてお正客になりましたからいい経験でした。こんな時は楽
ですから、皆様も機会がありましたらどんどん経験を積んでください。
終ってから電気をつけて、お道具を並べて説明をしてくださいましたし、手に
取って拝見できましたから、よくわかりました。
ですが、お稽古している方は道具の拝見の仕方もわかっておいででしょうが、
確認のため申しますと
道具を手で持つ時は両手で、肘はひざにつけて上の方に持ち上げない。
蓋のしてある棗は、蓋を取ってから実(下のほう)を持って拝見する。
こんなハプニングがありました。
お客さんの中の一人が、棗を蓋をしたまま持ち上げ傾けました。見ていた係り
の方は思わず声を上げて「あーあー」と驚かれました。たっぷり入っている茶
の粉は棗の中でぐしゃぐしゃなっています。
係りの人の非難の目は彼女に注がれましたのは当然ですし、「よく知っている
方にお聞きになって行動ください」と、きつい言葉で注意をされました。
お茶会にて初心者の方がそんなことをなさるのを見かけたことがあります。後
から拝見する人は棗の蓋を開けた途端に粉がこぼれ畳を汚します。
そんな時は蓋を閉めたままで拝見して次客へ回しました。
始めからそんな不注意はしないことですが、汚さないように、その時の最善の
方法を見つけて処理しましょう。経験を積む事が身につく事になるので、大い
にお茶会へはいらして、先輩の所作を学んでください。

軸は、「明歴々露堂々」
142で、この軸の説明から会社名を付けられたことを紹介いたしました。
私も好きな言葉なので、軸を間近で見られるとうれしくなりました。

明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)
禅語で、簡単に言いますと、
「歴然と明らかに堂々と顕露していて、すこしも隠すところがない」
と言うのが文字の意味で、一般には真理は高尚深遠なところに秘在しているも
のと考えられているが、それはこちらの悟りの目が開けていないからであって、
悟りの眼を開いた上で眺めてみると、真理は「頭上漫々脚下漫々」で、ごく平
凡卑近なところにも実は少しもかくす所なくはっきりと現れている、万物万象
の上に堂々と顕露している。
一木一草の上にも宇宙の大生命や、仏教の教えなどが、明らかに現れ万物万象
の上に真理や、大道が歴々明々と露呈している。
大乗仏教の世界観を的確に表白した一句である。

自分に隠すことがあったり、嘘をついていると、堂々とした態度がとれない。
迷うことや悩みがある時に、廻りを見渡せば、きっと自然の中に答えが見つか
るはずだ。答えは、身近な所にころがっているのに、見えていない。
見えるように、いつも心身を磨いておこうと言うようにも、読みとることもで
きますね。
この言葉は、季節感がなく、軸ものとしていつでも使えますが、「あきらか」
という言葉から、秋を連想して、この時期に使われることが多いです。

「茶は茶事にはじまり茶事に終わる」と言われます。
茶事は茶会のことですが、おお寄せの茶会では、薄茶だけが登場いたします。
けれども、正式では、懐石も出されますから、茶道文化のすべてを含んでお
り、お茶の集大成とも言えます。
又、日常の稽古とは、茶事の割り稽古をしていると言っても過言ではありません。
お茶の稽古は茶事をするために稽古をする、種々な茶入れや棗の扱い、夏と
冬の違いなどを覚えるためです。


<茶事>茶事の種類
正午の茶事が基本となり、
朝茶事、夜咄茶事、暁(あかつき)茶事、飯後茶事、跡見の茶事、臨時(不時)
茶事の七種類に分けられ、これを茶事七式を称しています。
他に一客一亭茶事、一畳台目、二畳中板といった小間で催すのがふさわしく、
よほどの老巧の茶人でなければ難しいと言われます。
口切りの茶事、開炉時の十一月に適する茶事で、席中にいながら茶臼の音を楽し
む風情のある茶事。
立礼の茶事、裏千家十一世玄々斎宗室居士の草案で、裏千家独自のもの。
名残りの茶事、十月末頃に夏の名残りを取り合わせたわびの一言に尽きる茶事。
などがあります。
茶事は、食礼と茶礼とで行い、日ごろの修練の結果であり、道・学・実の茶道
理念を端的に表現できるものです。